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1958年(昭和33年)はベル・エポック 

1958年に登場した電車特急「151系こだま」
それを誰かがベル・エポックだと言った。
 
ベル・エポック…それは19世紀末、パリが美しく華やいでいた時代。

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「その風は鉄路に色彩を与え、華やかな風をまとって走る姿に
すべての景色は魅了された…」
(DVD映像作品「鉄路の記憶:Queen」より引用)

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1956年(昭和31年)、東海道本線全線の電化を達成し、電気
機関車であるEF58が牽引の「つばめ」が運行を開始しました。

鮮やかな淡緑5号の装いが注目を集めた「青大将」ですが、
車体のフォルム自体には未だ前時代的な匂いが残っていました。
 
その2年後、1958年(昭和33年)に満を持して登場したのが、
151系特急「こだま」です。

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「流美な横顔は気品に満ち、その姿に誰もが新しい風を感じた」
(富塚商会DVD映像作品「鉄路の記憶:Queen」より引用)

ボンネットスタイルという流線形のフォルム。そして、
クリーム色をメインとしたボディに走る赤ライン。
 
それまでになかった新たなデザインが時代に与えた
インパクトは大きく、まさに新しい時代の風そのものでした。

また、151系は車体の外観デザインだけではなく、
車内インテリアにも当時としては革新的且つ高価な
設備が用意されました。
 
全車に冷暖房を完備し、照明には蛍光灯を使って550ルクス
という明るさを達成。550ルクスとはそれまでの吊掛式の
国電車内のおよそ5倍もの明るさです。
 
さらに151系では、車内電話やデッキと客室の間の自動ドア。
今ではほぼ全ての電車で標準装備されている車内案内表示
装置(151系の場合は列車位置表示装置)が搭載されました。
 
車内電話と云っても何がすごいのかピンと来ないかも
しれませんが、1960年(昭和35年)頃の一般家庭における
電話普及率でさえ約2%前後です。そのような時代に電車で
電話が出来るという事が如何ほどのことだったか。
  
また、ビュッフェでは、松下製のエアタオルに東芝製の
電気酒かん器、電気冷蔵庫。そして電気オーブン、後に
電子レンジが電車に初めて備え付けられました。
 
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左:「青大将」オシ17 右:「181系とき」サシ181の厨房
 
上の写真は、シール化した「青大将」オシ17と、「181系とき」の
サシ181の厨房部分です。
「青大将」では石炭レンジだったものが、151系では電子レンジ
(初期は電気レンジ)になりました。
 
また、スマートに振舞えるようにと取り付けられたのが
エアタオルです。今では当たり前のように見かけますが、
当時は珍しい機器で、エアタオルの側には使用方法を
説明したプレートが貼り付けられていました。

このようにビュッフェは時代を先取りしたまさにオール
電化キッチンとなっていました。
 
勿論そうした設備面だけではなく、列車本来の走行性能も
静粛性も当時の電車の最高峰であり、その試験走行の
際には、立ち会った役員が「走行中でも字が書ける!」と、
驚きの声を上げたとの逸話も。
 
さて、そんな「151系こだま」の華やかな登場の裏には、
当時の国鉄がおかれた危機的な事情がありました。

2020-03-20-06.jpg 
 
昭和30年代、鉄道は既に斜陽産業だとも言われ、航空業界に視線を
向ければ、1951年(昭和26年)を皮切りに国内の定期旅客運航が
順次開始され、1956年(昭和31)には日本道路公団も発足。
本格的なモータリゼーションの時代も始まろうとしていました。
 
また、当時の鉄道の主役はまだまだ石炭を大量に消費する蒸気
機関車だった為、国鉄は常に石炭使用量に頭を悩ませることに。

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更に追い打ちを掛けるかの如く、蒸気機関車では増加の一途を辿る
利用者の数に対応するだけの輸送力増強に限界がありました。
 
実際には国鉄でも早くから電化の動きはあったものの、国鉄内部では
電車反対論者が最大勢力を誇っており、なかなか電車が活躍する
場面もありませんでした。
 
そうした状況を一気に打開するべく、151系の関係者は電車反対
論者の身内を説得しながら、飛行機や自動車産業にも負けない
結果を求められていました。
 
─────────────────────────────────
◎コラム~もう1つのベル・エポック~

20系客車は寝台特急「あさかぜ」用に製造され、151系同様に
空気バネに冷暖房完備。当時の寝台列車の水準を遥かに
超えた完成度と青い車体からブルートレインと呼ばれブームを
巻き起こしました。
 
2020-03-20-09.jpg
 
20系客車の登場も151系と同じ1958年(昭和33年)。
どちらもこの年のダイヤ改正で営業運転に投入される予定
でしたが、151系は試験走行に1ヶ月ほどゆとりを持たせた
ために、20系の方が少しだけ早いデビューとなりました。
─────────────────────────────────

そうして、いよいよ迎えた1958年(昭和33年)。
これまで述べてきた通り、その流麗なデザインと時代を
先取りした車内設備。そして、東京~大阪間を6時間50分
(後に更にスピードアップして6時間30分)で走ることと
相まって、151系は絶大な人気を獲得するに至りました。
 
この反響の大きさから、2年後の1960年(昭和35年)には
東海道本線の特急列車は全て151系に置き換えることが
決定されました。これは鉄道の主役が蒸気から電車へと
変わったのだというに等しい決定です。

こうした華々しい結果を残した「151系こだま」ですが、
時代のいたずらか、1964年(昭和39年)東海道新幹線の
開業に合わせ山陽本線へと転出する事になります。
 
しかし、東海道本線とは異なる路線の勾配や運行区間の
電流方式の違いなどから151系は早々に181系へと改造
されていき、形式そのものが消滅するに至りました。
 
東海道本線での活躍はわずか6年であり、181系への改修が
終了した1966年(昭和41年)の形式消滅まで8年の事でした。
 
~ベル・エポックの遺伝子~
 
151系としての活躍はあまり長くはありませんでしたが、特急網の
全国への延伸に伴い、151系をベースとした派生系電車が次々と
誕生。活躍の場を広げていく事になります。
 
最も早いのは1962年(昭和37年)に登場した上越線用の161系です。
この車両は後に151系と同様の改修を経て181系になります。

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1964年(昭和39年)に関西と北陸、九州用の481系電車が誕生し、
翌1965年(昭和40年)、関東と東北用の483系電車が相次いで登場。
 
そして、1968年(昭和43年)ついに交流周波数両対応の485系が
デビューするに至り、特急電車が全国で活躍する時代となったの
でした。
 
ちなみに、これらの派生系電車は製造途中から運用に合わせ
貫通型の車両も製造されるのですが、基本的に登場時のフォルムと
カラーリングは151系のスタイルを踏襲していました。

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これは「151系こだま」のフォルムが特急電車のスタンダードとして
既に確立されていた面もありますが、他にも「特急電車」が初めて
走る事になった地域の住民が、「151系こだま」以外の形状や
塗装の車体では納得しなかったからだとも言われています。
 
こうして、1958年(昭和33年)に吹いたベルエポックの風は時代を
超えて、スマートに、そして静かに速く駆け抜けていったのでした…
 

73系のキット製作から始まった今回の鉄道勉強会。
そもそもの切っ掛けは「旧型の車両を見たことも乗ったことも
ない」というスタッフの知見を深めることが目的でした。
 
終戦を迎え鉄道そのものが大きな変革期にあった昭和20年代
から30年代。そこにはより良い鉄道車両を作るのだという
鉄道技術者の信念と熱意がありました。

また、鉄道の置かれた時代背景と共に技術の進歩や鉄道
利用者の暮らしや考え方の変化1つ1つが、鉄道車両の製造や
在り方に大きな影響を与えていました。
 
今回のブログタイトルは「1958年はベル・エポック」でしたが、
昭和20年~30年代という時代そのものが日本鉄道史のベル・
エポックだったような気がします。
一先ず、今回の勉強会はこれにて終了となります。
 
 
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Posted on 2020/03/20 Fri.   edit  |  tb: 0   cm: 0  

新性能電車、90系改め101系へ 

1958年(昭和33)、ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄氏が巨人軍に入団。
後楽園球場にて天覧試合が催され、9回裏に長嶋選手が劇的なサヨナラ
ホームランを放ったのが翌年、1959年のことでした。
 
1950年代を振り返ってみると、1953年にテレビ放送が開始され、
多くの国民がプロレス放送に熱狂。50年代の後半には白黒テレビ、
洗濯機、冷蔵庫という憧れの家電製品が三種の神器と持て囃され、
新しい生活の象徴にもなりました。

このように1950年代に入ると戦後の復興から立ち直り、国民の生活や
娯楽にも明るい兆しが見え始めましたが、同じく鉄道に於いても「101系」
新性能電車という実を結ぶこととなります。
 
ちなみに101系は、長嶋選手の巨人軍入団前年に当たる1957年に
モハ90系として製造され、天覧試合の行われた1959年に称号規程改正に
よって101系と改称されました。
 
 
さて、101系の特徴としては静かで軽快なカルダン駆動、セミ・モノコック工法に
よる軽量車体、2両を1単位とした全電動車編成連結などが挙げられますが、
72系と101系を並べてみても外観上の違いは一目瞭然。

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クモハ73

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101系

茶色一色から色鮮やかなカラーを採用し、中央線はオレンジ色、
山手線はカナリアイエロー色(後にウグイス色)でデビュー。
このラインカラーは現在も継承されていますが、もとを辿れば
ルーツは101系にありました。
 
余談ながら、軽量車体に欠かせないモノコック工法による初の電車は
1952年に誕生した西鉄の313形電車でした。
 
モノコック構造とは、それまでパーツ毎に受け持っていた負担を
車体全体で必要とされる強度を分担して受け持つ構造です。

これまでのブログでも度々登場した車体側面の窓部分の上下に
取り付けられたウィンドウ・シル/ヘッダーが姿を消したのは、
このモノコック構造による車体製造が可能になった事に因ります。

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こうしたモノコック構造やカルダン駆動方式、更には車体のカラー
リングと73系とは抜本的に異なる変革を遂げた101系ですが、
パンタグラフのPS13形は101系でも引き続き搭載されることに。
 
1949年(昭和24)には、鉄道電化協会の内に電気車すり板
改良研究委員会を立ち上げ、1952年には集電研究会も発足。
東海道本線での110km/h実現に向けたパンタグラフ研究も
行われたようですが、大きな成果をみることは出来ず…

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左:TOMIXのPS13形 右:KATOのPS13形
 
後の151系試作車製造にも、適合したパンタグラフの開発が
間に合わず、PS13形パンタグラフを使用していたそうです。
 
PS13形は戦時設計の為、資材を節約の工夫が随所に施されて
いました。下枠が鋼板の箱形溶接となり、上枠も溶接造り。
摩擦軽減の玉軸受や補強材も無く、すり板は銅の欠乏に対応する為、
炭素すり板となりました。 
 
しかし戦時設計であったにも関わらず、性能の方は思いのほか悪くは
無かったようで、73系や101系など多くの電車で使用されることに。

また、新性能パンタグラフの研究から遅れること2年。1954年
(昭和29年)、仙山線にて日本初となる交流電化試験が行われ、
後の東海道新幹線開発に大きく貢献する事となりました。


1950年代。日本では神武景気に続き岩戸景気もあり、国民生活は
大きく向上し、娯楽を楽しむゆとりも生まれました。
101系はそうした社会の大きな変化に影響を受けつつも、新しい時代に
そぐわしいスタイルの鉄道として登場した電車だったのではないでしょうか。

いよいよ73系から始まった勉強会も次回が最後。テーマはブログ
冒頭へと戻って、やはり長嶋選手が巨人に入団した1958年(昭和33)
「こだま形」と呼ばれ、日本初の電車特急として日本鉄道史に
偉大な功績を残した「151系(登場時は20系)」についてです。

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Posted on 2020/03/12 Thu.   edit  |  tb: 0   cm: 9  

新性能電車のあけぼの 

 
朝鮮戦争特需による神武景気は、日本の産業界を目覚ましい
復興・発展へと導きました。
その結果、東京-大阪間を6時間30分で結ぶことにより、
日帰り出張を可能にするという、まさに神武景気を象徴するかの
ような発案が国鉄内部で起こりました(注:当時の最速の
東京-大阪間の所要時間は「つばめ」で約8時間)。

このような発案から、車両の軽量化、高速運転に対応する台車の開発、
大出力の牽引機の開発がなされ始めました。その結果生まれたのが、
国鉄初のセミモノコック工法による10系軽量客車です。

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昭和25年、この軽量客車を利用した、当時の牽引機としては最大出力を
誇るEH10牽引による東京-大阪間6時間30分運転が可能かを検証する
高速試験運転を実施。その成果は時速120キロ運転を達成し、6時間30分
運転が可能だと実証される事となりました。

2020-03-05-02.jpg

この結果を経て、貨物用の牽引機EH10を基に、旅客用に開発する
EH50が計画されましたが、軌道強化だけで当時の金額で150億円。 
更にその他にも、架線・地上設備改良・車両製作費などを考えると、
計画に必要な予算は170億円にも上ると試算されました。
 
当時の国鉄の予算が530億であった時代。残念ながら予算面から、
高速機関車牽引による6時間30分計画が不可能であることが明白に。
 
しかし、新仕様の台車も含めての車両軽量化が、前回の勉強会
ブログでも紹介したモノコック工法を用いたTR48やDT20の誕生に
繋がり、数年後の新性能電車の101系、151系へと繋がっていった
のでした。
 
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Posted on 2020/03/05 Thu.   edit  |  tb: 0   cm: 0  

昭和20年代、2つの戦争が日本の鉄道に与えた大きな影響 


今回は勉強会の続きです。
1950年(昭和25)を境にして、急に新型車両の電車が次々と誕生します。
 
この変化は既に勉強会でも触れたように第二次大戦中の設計で
あるか、戦後の設計製造であるかの違いに由るものです。
その変化は技術や素材はもちろん、車体のデザイン性にも如実に
見て取れます。

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手前:クモハ73 奥:旧型客車
 
写真は元祖湘南電車で有名な80系、そしてスカ色でおなじみの
70系(写真は見ての通り、スカ色ではなく派生系の上越カラー)です。
また、戦中生まれの63系も様々な改良工事が施され73系として
生まれ変わっています。

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手前:上越色70形 奥:湘南色80形アップ
 
70系や80系電車になると、フォルムは別にしてもそのカラーリングには
現在の電車にだいぶ近づいたような印象を受けます。
 
そもそも旧型客車や63系は専ら茶色で塗装されていた理由は、当時の
牽引機が蒸気機関車だったからです。走行すればSLから出る煙で
客車は煤まみれになる為、綺麗な塗装は返って汚く見えてしまいます。 
しかし、電車となればその心配は必要ありません。
 
そうした現実的な状況の推移と合わせ、戦後の鉄道車両設計者や
国民全体の意識変化も電車のカラーリングに投影されています。
 
先の80系湘南色は路線沿線の特産品を表現している事は有名ですが、
鮮やかな明るい色を纏う電車に、新しい時代の幕開けと電車の持つ
疾走感といったイメージが表現されました。
 
こうした点から戦後、特に1950年以降の電車の外観は一気に
色鮮やかになっていったわけですが、今回はもう1つ、戦争に影響を
受けたあるパーツについて学びました。
 
 
そのパーツというのがベアリング…そう車軸軸受です!
 
鉄道初期には平軸受だったものが、1930年頃からはスリーブ締付け式
円すいころ軸受になりました。

さらには運輸省の前身である鉄道省時代から「日本の鉄道車両は
高性能なころがり軸受化する」との方向性を定めていたのですが、
敗戦によりアメリカから軍需産業と関わりの強いベアリング産業
自体に制約を科されてしまいます。
あまつさえ鉄道車両用の国産の「円筒ころ軸受」は製作そのものを
禁止されてしまったのでした。
 
その後、運輸省やベアリング工業の関係者を中心にベアリングを
使用する鉄道や自動車産業も一丸となってGHQや米軍の当局と
交渉を重ね、1948年(昭和23)、ついには鉄道車両用の車両軸受の
製造が認められるに至りました。
 
2020-03-02-03.jpg
旧式のモハ72 台車DT13
 
2020-03-02-04.jpg
新型のモハ72 台車DT20

さて、国産の車軸軸受製造が禁止されたのは、偏に第二次大戦に
因るものですが、実はその後、「円筒ころ軸受」が普及した背景の1つに、
1950年(昭和25)に勃発した朝鮮戦争の影が浮かび上がって来ます。

この戦争の勃発によりアメリカ軍は日本国内での軍備品の補修整備が
必要になり、それまで日本では軍需産業に結び付くことから禁じられて
いたベアリング製造や良質な金属板の輸入が徐々に緩和されることと
なりました。
 
鉄道車両のベアリングに関していえば、「円筒ころ軸受」前の平軸受の
材料は銅合金に錫や鉛などでした。それが朝鮮戦争による軍需調達で
鉛の価格が高騰。結果、車両台車の「円筒ころ軸受」化が一気に進む
要因になった側面もあるようです。
 
こうした時代の流れの中で、それまで半鋼製はりぼて(?)構造だった
車体(帯板による補強構造)は全金構造に。台車も板バネ構造のものから
コイル構造の台車に生まれ変わっていったのでした。
 
高速走行に堪え得るだけではなく、乗り心地も抜群な台車の製造に
欠かせなかった国産の「円筒ころ軸受」
そんな台車に支えられ、新しい時代の到来を意識した鮮やかなカラー
リング塗装で注目を集めた新性能電車。

1950年代。当時の新型車両には、第二次大戦と朝鮮戦争という2つの
戦争の影響があったことは、日本の鉄道車両史を紐解く上で、
ぜひ知っておくべき事であると思いました。

さて、次回の勉強会では、あの車両が出てきます。

 
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Posted on 2020/03/02 Mon.   edit  |  tb: 0   cm: 0  

一見すると旧型電車を電車にしたような… 

 
写真は手前にクモハ73、奥にオハ35を並べたものです。
オハ35は国鉄の前身である鉄道省が製造した車両で、今では
旧型客車などと呼称されています。

2020-02-19-01.jpg
 
現代のE235系を始めとした一般形車両を見慣れている身から
すると、乗降口の数や窓のスタイルなどの違いはあるものの、
一見すると73系電車は旧型客車を電車化したものであるかの
ように見えてしまいます。
 
さて、73系(63系)が山手線や京浜線(京浜東北線)で活躍して
いた時代、旅客輸送は機関車牽引による客車による輸送が当たり前。
 
後に新幹線の生みの親となる車両局長の島秀雄氏が15両編成で
100kmの距離を走る電車、80系湘南電車プランを公表しても「何を
寝ぼけたことを言っているんだ」と当時の国鉄内部では相手に
されなかった、そんな時代でした。
 
ここで73系と旧型客車オハ35の構造を比較してみると、どちらも
内装が木造で車両ボディにはウィンドウ・シル/ヘッダーを用いた
補強を行っている点。また台車に関してはTR23(オハ35など)の
電車仕様であるDT13(TR35)を採用している事などから、旧型客車を
単に電車化しただけという印象もあながち的外れという訳では
ありません。
 
ところが、パンタグラフを含めた73系における電車の動力装置を
調べてみるとその認識が一変します。
 
主電動機が電機子軸受をコロ軸受とした定格出力142kWのMT40。
主制御機には電動カム軸式CS10を採用しており、動力関係の装置は、
後に誕生する70系・80系中距離電車と同じ機器が既に開発投入されて
いたのです。

2020-02-19-02.jpg
手前70系、奥80系電車
 
80系と言えば国鉄における吊り掛け駆動方式旧型電車の集大成と
評すべき存在であり、一般には80系の高性能さという点がクローズ
アップされやすいのですが、実は戦時中に作られた63系を改修した
73系で既に駆動系周りは、80系と同等のグレードのものが使われて
いたのでした。
 
73系の外観の類似性について、旧型客車と80系どちらに似ているかと
問われれば、やはり旧型客車との関係性がより強いと感じます。
そこから電動機や制御器など走行の動力に関する駆動系の機器類は
旧態依然の装置が取り付けられているのだと安易に想像してしまい
がちですが、電車も見た目だけでは分からないというお話でした。
 
次回は73系の車体についてもう少し踏み込んでいきたいと思います。
 
 
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Posted on 2020/02/19 Wed.   edit  |  tb: 0   cm: 0