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20系寝台特急あさかぜ牽引機~その栄光と苦節~part2

 
前回ブログの「20系寝台特急あさかぜ牽引機~その栄光と
苦節~part1」
の続きです。

~山陽の難所、瀬野八の強力な助っ人EF59~

EF59は1963年(昭和38年)に高崎機関区と東京機関区のEF53、
次いで宇都宮機関区のEF56をそれぞれ改造して誕生した。

その目的は山陽本線の難所である瀬野~八本松間の勾配区間を
補助する事にあった。瀬野-八本松間は10.5kmの区間は、
22.6パーミルの勾配が続く。

もともとの計画ではこの区間に、最高速度85km/h以下という
高速性能よりも牽引力を重視した機関車の投入が予定されていた。

しかし広島駅で補機を連結し、広島-瀬野間を90km/hで特急列車を
運転する事となり、それに対応させる為に製造されたのが本機である。

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EF53から改造されたEF59

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EF56から改造されたEF59

重量のある貨物列車だけでなく、14両もの20系寝台客車を
牽引するに至っては、EF58、続くEF61でも出力不足となるため、
EF59の補助が必要となっていた。
 
尚、EF59は列車の後方に連結される補機ではあるが、レアな
ケースとして事故の影響から、20系「あさかぜ」を先頭に立って
牽引した時の映像も残されている。
当時の8mmビデオなので詳しい経緯は不明だが、瀬野駅を
通過する岡山から広島への下り「あさかぜ」だと思われる。

本記事は「あさかぜ」の牽引機関車について述べているが、
上記の映像発見もあって、急遽ピンチヒッターを務めた
実績ありという事でEF59についてもまとめる事とした。

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さて、EF59の外観については冒頭でも述べた通り、ベースとなった
EF53とEF56の違いによって、2タイプのスタイルが併存する事となった。
EF53をベースにした方は、パンタが屋根上両側に配置されている。
それに対しEF56を改良した車両はパンタが中央に寄った外観と
なっており、そうした違いもEF59の魅力となっている。

また、他の電気機関車と比べると、車体両側にデッキが設けられて
いる分だけ車両が長くなっており、特に2エンド側に警戒色塗装が
施されているのも見逃せない。

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EF59は鉄道模型に於いても瀬野八越えを再現する場合、
欠かすことの出来ない模型である。
EF59が連結されていれば、それは瀬野八であることを意味する。

後補機の役目を果たした後は2両、4両(場合によっては6両)と
EF59を連結して瀬野に戻ってきた。そうした編成を再現して
みるのも、また楽しい模型だ。


~不遇の牽引機EF60-500~

EF60は1960年(昭和35年)に平坦路線向けの車両として開発された
電気機関車である。そして、1963年(昭和38年)から1964年(昭和39年)、
20系客車「あさかぜ」を牽引していたEF58形の置換え用として
製造された車両グループが、EF60の500番台グループなのである。

EF60は従来の貨物列車用の機関車とほぼ同等の出力を
持ちつつ、小型軽量の機関車として開発されたのだが、
この設計構造が後々の不運へと繋がっていくこととなる。

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昭和30年代の後半、国鉄では輸送力強化のため相次ぐ
増強を実施。その結果、運行ダイヤはもはや限界の域に
達していた。これ以上の増発が無理ならば、連結する車両を
増やす事で定員数も確保するしかない。

そこで「あさかぜ」では、13両の牽引が限度であったEF58を
EF60-500へと置き換える事で、15両もの長編成「あさかぜ」を
実現する事に。

また、EF58単機ではセノハチの勾配を登坂する事が出来ず、
後部補機を必要としていた。このネックを解消できることも
EF60-500置き換えのメリットであった。

しかし、EF60自体は一般の貨物列車牽引を目的として設計されて
いた為、高速運転でのロングラン走行はそもそも無理であった。
実際、過重な負荷に耐えられず主電動機が故障する事態が多発。

1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)までの2年あまりで、
「あさかぜ」牽引の座を追われることとなった。

しかし、腑に落ちないのは、なぜ貨物用設計のEF60を「あさかぜ」
牽引に採用してしまったのかという事だ。技術者や設計者ならば、
予めこの結果が予見できそうなものだが。

もしかしたら、技術部はこの問題を指摘したにも関わらず、
上層部の甘い経営判断や運用などの諸事情などから、
強引にEF60-500導入を推し進めた可能性も考えられる。

筆者の知る限り、当時の国鉄内部の判断や関係者の話が伝わって
いないので安易なことは言えないが、「あさかぜ」牽引を次の
EF65に譲ってのち、EF65不足の事態に陥っても本機EF60-500
ではなく、先代のEF58が寝台特急牽引に再登板するに至っては、
まさに不運の機関車と言うほかない。

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国鉄の直流電気機関車の標準的なスタイルといえばEF60だ。
「あさかぜ」牽引では不遇であったものの一般貨物の牽引に
於いては広く活躍した。
また、1970年代後半からは中央本線・高崎線・両毛線などに
投入されたので、関東圏でもその姿を見られた。

模型では特急色のほか、以前は一般色、茶色、やすらぎ色などが
販売されてきた。Nゲージのレイアウト走行では主電動機の
トラブルなど関係なし。EF60は貨物列車を編成する場合のマスト
アイテムなのである。

~そして、栄光のEF65-500~

今回取り上げた20系寝台「あさかぜ」牽引の最後の栄誉に
浴したのがEF65-500である。20系客車だけではなく、この
EF65-500もまた直流用電気機関車の名機と呼ばれる存在だ。

EF65-500はまず、1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)に
17両が製造。1968年(昭和43年)には基本番台から改造された
車両も追加された。

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先述の通り、「あさかぜ」牽引のEF60-500は長距離の高速運転に
難があった。また、この時期、軌道の強化により寝台特急の速度
向上案が浮上。しかし速度アップ時に必要となるAREBブレーキを
EF60-500が搭載していない事なども重なり、EF65-500が誕生する
こととなった。

EF65-500が20系「あさかぜ」の牽引を開始したのは、製造年と
同じ1965年(昭和40年)からだが、3年後のヨンサントオと
言われる1968年(昭和43年)10月1日のダイヤ改正後、
20系特急の最高速度が110km/hに引き上げられている。

時は進み、この間EF65-500は20系寝台「あさかぜ」を始め、
寝台特急の牽引機として活躍を続けた。
しかし、20系寝台の方に置き換えの時期が迫っていた。

1972年(昭和47年)、東京-博多間の「あさかぜ」で14系客車
への置き換えが実施された。

さらに6年後、いよいよ20系ブルトレの元祖「あさかぜ」も
姿を消す時がやってきた。
1978年(昭和53年)1月31日、最後まで残っていた20系客車
編成の「あさかぜ」も24系25形の寝台客車へ置き換えられ、
ここに1958年(昭和33年)から日本の寝台特急の一黄金時代を
築いた20系寝台「あさかぜ」の幕は下りたのだった。

尚、栄光の20系寝台「あさかぜ」の最後まで牽引の重責を
果たしたEF65-500も連日にわたる高速での1,000km輸送による
老朽化は避けられず、寝台特急牽引の役目を同系列の
EF65-1000に道を譲ったのは、この年の秋のことであった。

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国鉄時代の直流用の電気機関車は数あれど、模型で人気が
高いのはEF58か、このEF65なのではないか。
EF58と同様にEF65も製造分類にあわせ、0番台、500番台P形、
500番台F形、1000番台などが販売されてきた。

東京発の寝台はもちろん、大阪発の寝台特急も牽引し、
当然の如く高速貨物列車の運用でも活躍。
国内の主要な直流区間で大車輪の働きぶりをみせた。
特急寝台を再現する場合、無くてはならない模型である。
 
 
つづく